聖霊降臨後第12主日(ルカ14:7-14)
「共生について」
沼崎 勇牧師
韓国の作家ハン・ガン氏は、大人のための童話『涙の箱』(きむふな訳、評論社)を書いています。この童話には、涙を集めているおじさんが登場します。彼は、集めた涙を、必要な人に売ることもあります。彼は、純粋な涙を持っているかもしれない子どもと出会い、二人で旅に出ました。二人は、涙を注文したお爺さんの家を訪ねます。お爺さんは、赤ん坊のころ以降、今まで涙を流したことがありません。彼は次のように語りました。
「親爺が亡くなった時、わしは一滴の涙も流せなかった。みんなはわしを冷たい息子だと非難した。わしは妻を愛していたが、妻は涙を流せないわしが怖いと言って去っていった。......あの時、わしがたったの一滴でも涙を流したら、妻は行かなかったのだろう。胸が張り裂け、崩れ落ち、目の前が真っ暗で、もう生きていけないほど悲しいような時でさえ、わしは泣くことができないんだ。......涙というものが人の心をどう変えるのか、経験してみないことにはな」(47‐48頁)。
そして、お爺さんは、買った涙を全部飲み込みました。すると、40余年前に父親を亡くした時、20年前に妻が去った時に流せなかった涙が、この瞬間に一度にあふれ出したのです。しかし、買った涙を全部使ってしまったので、お爺さんはもう泣くことができません。
そこで、涙を集めるおじさんは、「影の涙」を取り出しました。そして、懐中電灯をつけ、その明かりが「影の涙」を通して、お爺さんの体を通り抜け、白い壁に大きな影を映すようにしました。人によっては、目から流す涙よりも、影が流す涙の方が多いのです。それは、周りから、また自分自身から、「泣いちゃダメ!」という言葉をたくさん聞いて育った人たちです。それに、目頭が熱くなって、目の前がかすんできても、涙が流れない時があります。その時は、影の涙だけが流れているのです。逆に、影はまったく泣いていないのに、目から涙を流す人もいます。それは、嘘の涙です。
お爺さんの影は、涙を流し続けていました。子どもが壁に近づいて、影を見ると、右側の涙腺の泉には、2歳ほどの赤ちゃんが映っていました。赤ちゃんは静かに涙だけを流しています。左側の涙腺の泉には、若い女性が映っていました。お爺さんは言いました。「たぶん、わしが2歳の時に亡くなった母さんだろう」(64頁)。母の死後、お爺さんの涙腺は凍りついてしまったのです。
純粋な涙を持っているかもしれない子どもは、お爺さんの肩を抱きしめ、涙を流しました。すると、とても小さな一粒の涙が、お爺さんの頬を転がり落ちたのです。壁に映し出された影の涙腺からは、それよりも大きな涙が、とめどなく流れていました。
さてキリストは、招待を受けた客が、上席を選ぶ様子を御覧になって、たとえを話されました。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ14:8-11)。
この世においては、地位の高い人が上席に着き、地位の低い人が末席に着く慣習があります。ですから、他人よりも良く見られたいと思う人は、上席を選ぼうとするわけです。しかし神は、この世の地位によって、人間を評価される方ではありません。
11節のキリストの言葉は、「すべて自分を高くする人は低くされ、自分を低くする人は高くされるだろう」と訳すことができます。「自分を高くする人」、「自分を低くする人」とは、具体的にはだれを指しているのでしょうか。
キリストはこう言われています。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」(12-14節)。
「自分を高くする人」とは、具体的には「金持ち」であり、「自分を低くする人」とは、「貧しい人」です。キリストは、ルカ6章において、こう言われていました。「貧しい人々は、幸いである、......今飢えている人々は、幸いである、......今泣いている人々は、幸いである」(20-21節)。
岩田靖夫氏は、このキリストの言葉について、次のように述べています。「金持ちは力を持っています。......だから、金持ちは本当の他者に触れることができません。どうして触れることができないか。それは、『力』というものが『支配する』ものだからです。『愛』は『支配』に矛盾するのですね。......ところで、貧しい人は初めから丸裸ですから、何も持っていないわけですから、弱さそのものなのです。だから、貧しい人はお互いに助け合わなければ生きていけません。自分を自分で守ることなど初めからできないのです。そのとき、人が人に触れる」(岩田靖夫著『人生と信仰についての覚え書き』女子パウロ会98‐99頁)。
キリストは言われました。「招待を受けたら、上席に着いてはならない。むしろ末席に行って座りなさい」。その意味は、他人よりも良く見られたい、他人よりも上位に立ちたい、という虚栄心を捨てなさい、ということです。そして、自分の弱さをさらけ出すことができる時に、純粋な涙を流すことができる時に、人は人に触れ、共に生きることができるのです。