平和の主日(ヨハネ15:9-12)
「平和について」
沼崎 勇牧師
南アフリカでは、1948年から1990年代初めまで、大多数の黒人の国民を、少数の白人政府が治めるアパルトヘイト(人種隔離)政策が敷かれていました。聖公会司祭のデズモンド・ツツ (1931-2021年) 氏は、この政策の廃止に尽力し、1984年、ノーベル平和賞を授与されました(以下の記述は、ジョン・ディア著『山上の説教を生きる』新教出版社109-114頁に負っている)。
アパルトヘイトが最もひどかった時代、1987年頃、ツツ氏は、ワシントンDCで講演を行い、その中で、ソウェト(南アフリカ最大の黒人居住区)で出会った一人の老婦人について語りました。彼女は、毎晩午前2時に起きて、アパルトヘイトを終わらせてくださるよう、真剣に1時間、神に祈っているとのことでした。ツツ氏は語りました。「われわれは勝利する、と今私は確信する。なぜなら、神は一人の貧しい老婦人の祈りに抗することはできないからである」(111頁)。そう言うと、彼は激しく泣き出しました。
ローマ・カトリック教会司祭のジョン・ディア氏は、2014年に南アフリカへ行き、デズモンド・ツツ氏と話をしたそうです。その時、ツツ氏は語りました。「ホロコーストの時代、神がどのように苦しまれたか想像してみよう。神の子どもたちが他の子どもたちを殺している間、神は耐えながら待ち、できることは何もなかった。神は全能であり、遍在であるが、われわれに自由という賜物を与えようと決断なさった。善きものや愛、はたまたそうではないもの、それをわれわれに選択させようとお決めになった。この自由という賜物をくださったがゆえに、神は介入することができない。だから、この全能の神はわれわれがなす悪の前にまったくもって弱く、無力なのだ。これがわれわれの神なのだ。神はとても弱い。自分が神でなくてよかった。〔無力な〕神が神であってよかったと思う」(112頁)。
ディア氏は尋ねました。「それであなたはどうやって行かれるのですか」。ツツ氏は答えました。「私の好きな預言者はエレミヤなんだ。......なぜだか分かるか?彼はたくさん泣いたじゃないか!私もたくさん泣く。たくさん泣く。毎日、泣く。けれども、考えてみたまえ。神がどれだけ泣いておられるか!われわれはむせび泣く神を持っているのだ。われわれは皆、兄弟・姉妹だということをあまりにも分かっていないから、神はお泣きになる。だから、私もたくさん泣いたし、今も泣いている。でもたくさん笑いもする」(113頁)。そう言うと、ツツ氏は大声で笑い出したそうです。
なぜたくさん笑うことができるのでしょうか。デズモンド・ツツ氏は、かつてこう言っています。「神の世界は『倫理的な』世界であり、あらゆる兆候が逆の方向を示しているように見えても、悪、不正義、抑圧、そして偽りが最後の決定権を持つことは絶対にありえないことを意味しているのである。......南アフリカの人々が志気を維持して来られたのは、最後には善が勝つと確信していたからである」(113頁)。
さて、ヨハネ15:12において、キリストはこう言われています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。またⅠヨハネ4:20-21にはこう記されています。「『神を愛している』と言いながら兄弟〔姉妹〕を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟〔姉妹〕を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟〔姉妹〕をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」。
「互いに愛し合う」ことと、「兄弟〔姉妹〕を愛する」ことは、同じです。私たちは皆、神の子どもたちであり、兄弟姉妹です。すべての人は、人であるというそれだけの理由で、等しく特別の価値を持っているのです。
しかも、人間相互の愛は、神とキリストからの愛によって根拠づけられるのです。Ⅰヨハネ4:10-11にはこう記されています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。
ヘンリ・ナウエン氏によれば、福音の中心的メッセージは、次のようなものです。「神が私たちに、ご自分の愛する子を遣わしてくださった。それは、私たちの罪を赦し、私たちを新しい人にし、私たちが自己否定、悔恨、自責の念によって、身動きできなくなることなく、生きられるようにするためである」(ヘンリ・ナウエン著『平和の種をまく』日本キリスト教団出版局83頁)。
「平和」とは、私たちが赦された者として、他者を赦し、他者と和解することなのだ、と思います。ナウエン氏は、次のように述べています。「平和をつくる人は、神のうちにしっかりと錨を下ろしているので、他者を批評したり非難したり値踏みしたりする必要がない。平和をつくる人は、その隣人たちを―北米人であれロシア人であれキューバ人であれ南アフリカ人であれ―共に人間であり、罪人でもあれば聖人でもある仲間として見ることができる。また〔平和をつくる人は、その隣人たちを〕、相手に耳を傾けてもらうこと、目を向けてもらうこと、神の愛をもって配慮してもらうことを必要とし、私たちと同じ人間としての家族に属する者と見なされる余地を必要としている男性女性として見ることができる」(同書80-81頁)。
私たちが、神の創造された世界の一部であり、人間として皆仲間である、ということに気づくことが、私たちにとって大切なのではないでしょうか。神の愛のうちにしっかりと錨を下ろして、「私はほかのみんなと同じです。そして、そのことに感謝しています」と言える時、私たちは、平和への道を進むことができるのです。
聖霊降臨後第7主日(マルコ3:20-30)
「赦しについて」
沼崎 勇牧師
韓国の作家ハン・ガンさんは、エッセイ集『そっと 静かに』において、彼女が作詞作曲を手掛けて、自ら歌った曲の歌詞と、そこに込めた自分の想いを述べています。その中から、「車椅子ダンス」という歌を紹介します(以下の記述は、ハン・ガン著『そっと 静かに』クオン138-144頁に負っている)。
「涙は/もう日常になりました/でもそれが/私を完全に飲み込むことはなかった//悪夢も/私には日常になりました/全身の血管を/燃やし尽くすような不眠の夜も/私を完全に食い尽くすことはできない//見てください/私は踊っています/火を噴く車椅子の上で/肩を揺らしています/ああ、激しく//なんの魔術も/秘法もありません/ただ、いかなるものも私を/完全に破壊できなかっただけ//どんな地獄も/罵りや/墓場/あのひどく冷たい/みぞれも、ナイフのような/雹の粒も/最後の私を/打ち砕けなかっただけ//見てください/私は歌っています/踊っています/ああ、激しく/火を噴く車椅子/車椅子ダンス」(141-143頁)。
2005年の秋、ドイツに向かう飛行機の客室のスクリーンに、韓国の『開かれた音楽会』が映し出されていました。車椅子に乗った男性がたくさん登場し、車輪から花火が弾ける車椅子の前輪を、地面から浮かせながら、彼らはくるくる踊りました。それは、ずいぶん前に、交通事故で歩けなくなったカン・ウォンレとその仲間でした。ダンスデュオ・クローンのメンバーだったカン・ウォンレは、人気絶頂の2000年に、交通事故で半身不随となったのですが、5年にわたるリハビリの末、車椅子でカムバックを果たしたのです。
ハン・ガンさんは、カムバックしてステージで踊るカン・ウォンレを、その日はじめて見て、泣きました。それは、ちょうど少し前に読んだチャン・ヨンヒのエッセイが、彼女の頭に浮かんだからです。英文学者・作家のチャン・ヨンヒは、1歳の時に患った小児麻痺で両脚が不自由になり、大学入試が受けられないなどの差別と闘い続けました。毎朝、自分を背負って登下校していた母を回想しながら、チャン・ヨンヒはこう書いています。
「今日もどこかで歩けなかったり、見えなかったりする我が子を背負って、涙のような汗を流しながらひたすら階段を上り続けるお母さん、私が死んだらどうなるのだと深いため息をつくお母さん、この勇敢で忍耐強くて、凛々しくて神々しい母たちの孤独な闘いに愛と声援を送ると同時に、この本を私の母と彼女たちに捧げる」(140-141頁)。
ハン・ガンさんは、そのドイツに向かう飛行機の中で、「車椅子ダンス」という詩を書いたのです。
さて、マルコ3:28において、キリストはこう言われています。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒?の言葉も、すべて赦される」と。神が赦すことができないような罪はない、すべて赦される、とキリストは言われるのです。しかしながらキリストは、29節でこう言われています。「しかし、聖霊を冒?する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。これは、どういうことなのでしょうか。
エルサレムからやって来た律法学者は、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていました(22節)。「ベルゼブル」の意味は「住居、家の主」です。「住居」が神殿であるとすれば、異教の神、偶像ということになります。また「ベルゼブル」は、「悪霊の頭」と同一視されています。そうするとここでは、聖霊と悪霊が対比されているわけです。
神は、キリストに聖霊(神の力)を注ぎ、キリストを通して、多くの病人を癒されました。キリストは、神の愛の業を実行されたのです。それに対して、「悪霊の頭に取りつかれている」と言って、聖霊に満たされているキリストを冒?した律法学者は、神の愛の業を中断させようとしたのです。なぜなら、聖霊の結ぶ実は愛であるからです。
例えば、パウロは次のように述べています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤ5:22-23)。確かに、すべての罪は赦されます。しかし、聖霊の実である、神の愛の業を妨害することは赦されないのです。だからキリストは、悪霊を追い出されたのです。悪霊を追い出すということは、神の愛の業に対する妨害を取り除くことに他なりません。
ハン・ガンさんは、エッセイの中で、次のように述べています。「誰でも生きているとつらい瞬間に出会う。それがいつであれ、どんな形であれ、ときにはそのせいで魂の一部、またはすべてが破壊されることもある。ただ大切なのは、自分の本質が今まさに破壊されようとするその瞬間の態度だと信じている。その最後の瞬間に、最後の自分を守ってくれる細い綱を放してはいけない。放したとしても、またつかめばいい。地獄のような状況にあっても決して打ちのめされない心の精髄を、そのか細いけれど堅固な実体を、全身全霊で感じるべきだ。感じ取らなくては。簡単ではないけれど。とても難しいことだけれど。その瞬間」(ハン・ガン前掲書143-144頁)。
私たちも、生きている限り、つらい瞬間に出会うことがあります。ただ大切なのは、その瞬間の態度なのだ、と思います。その瞬間に、最後の自分を守ってくれる、細い綱を放してはいけないのです。放したとしても、またつかめばいいのです。そして、最後の私を守ってくれる、細いけれども決して切れない綱とは、イエス・キリストである、と私たちは信じます。
聖霊降臨後第4主日(マルコ2:18-22)
「新しい革袋」
沼崎 勇牧師
こども食堂は、2012年ごろから始まり、2023年現在、日本全国に9000ヶ所以上開設されている、と言われています。その中のパイオニアの一つである、2012年にできた食堂が、「にしなり☆こども食堂」です。こども食堂は、釜ヶ崎から北西に向かって15分ほど歩いた場所にある、古い市営住宅の中にあります(以下の記述は、村上靖彦著『子どもたちがつくる町-大阪・西成の子育て支援』世界思想社124-133頁に負っている)。
代表の川辺康子さんは、インタビューに答えて、こう言っています。「やっぱり人は変わっていくんだというのは、ここの子どもたちもそうですし、親からも思います。だから『大人になったから変われない』とか〔言う支援者もいるけれど〕、『いや、変わらさんようにしてんのはあんたたちやん』ってどっかで思ったりするんです。『それをつくり上げてるのは、周りの私たち〔支援者〕ですよ』と。『そこに気づかへんかったら、変わらへんと思いますよ』っていうのをぶっちゃけ言うていきたい」(127-128頁)。
親たちが変わるのを支援者が否定しなければ、親は変化します。支援者の変化が、子どもの変化を可能にします。つまり、支援者が管理的な態度を改める変化こそが、食堂に集う人たちの変化を促すのです。
また川辺康子さんは、こう言っています。「私この食堂をやりながらね、子どもたちもそうですけど、『あの親はもうとんでもない親や』と言われてるお母さんたちからね、いろんなことを教えてもらってるっていうのがね、ほんまのところで。......たとえば、自分があたりまえに常識やと思ってる、自分のなかのまあ、人を見るものさしのようなね、そういうのんで、人を知らない間にこう測ってる。世間一般の常識で、その子を測るというか、そういうことを自分のなかでしていたんやなあっていうのが〔分かる〕」(128-129頁)。
母親の変化の可能性を押さえ込んでしまうのは、支援者がもち込むものさし(社会的な価値観や規範)です。しかも「あの親はもうとんでもない親や」というものさしは、「世間一般の常識」なので、「知らない間に」働いてしまっています。もしこのものさしを外すことができれば、「お母さんたちから......いろんなことを教えてもらってる」というように、視点が逆転するのです。
川辺康子さんの話で、このような立場の逆転が登場するのは、困難な状況にいる(虐待と言われてしまうような振舞いもしてしまう)親が、変化する場面です。支援者が管理的な態度を改めると、親が自発的に変化します。その時、支援者が教えるのではなく、親が支援者に教える、ということが起きるのです。
さてマルコ2:18において、人々がキリストのところにやって来て、こう尋ねました。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。
確かに、律法を守ることに熱心であったユダヤ人たちは、週2回、断食をしました。洗礼者ヨハネの弟子たちも断食をしました。しかし、もともと断食は、悲しみや懺悔を表わすものでした。悲しみに苦しんでいるから、食べ物が喉を通らないのです。また、罪を心から後悔しているので、食事を取ることができないのです。ところが次第に、断食それ自体に功徳がある、と考えられるようになりました。その結果、悲しみや懺悔を欠いた、形だけの断食が行われるようになったのです。だからキリストは、人々に向かって、こう言われたのです。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」(19-20節)。ここでは、「花婿」はキリストであり、「婚礼の客」は弟子たち、キリストを信じる人たちです。
このキリストの言葉は、次のように理解することができます。弟子たち、キリストを信じる人たちは、キリストが自分たちと一緒にいてくださるのだから、喜びに満たされている。だから彼らは、悲しみや懺悔を表わす断食をすることができない。しかし、キリストが十字架につけられ、奪い取られる時が来る。その日には、弟子たちは、キリストを裏切ったことを悔い改め、キリストの死を悲しんで、断食するのだ、と(石井晴美著『マルコ福音書講解』ヨルダン社73-74頁参照)。
またキリストは、こう言われました。「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。......新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(22節)。ここでは、「新しいぶどう酒」はキリストの教えであり、「古い革袋」は断食を守ることに固執する律法主義です。
このキリストの言葉は、次のことを私たちに教えています。つまり、古い教え(律法主義)に固執せず、新しい生命力に満ちたキリストの教えを受けとめて、「新しい革袋」、すなわち新しい自分に変わるように勧めている、ということです(同書74-75頁参照)。
私たちも、「世間一般の常識」というものさしで人を測り、「あの人はとんでもない人だ」とか、「大人はもう変われない」とか言っているのではないでしょうか。しかし、もしこのものさしを外すことができれば、私たち自身が変わり、そして相手も変わることができる、とキリストは教えてくださっているのです。
コヘレト2:24にはこう記されています。「食べて飲み、自分の労苦〔働くこと〕に幸せを見てとること、これ以外に人の幸せはない」(月本昭男訳)。断食するのではなく、一緒に食べて飲み、語り合う時、労苦の中でも、生きる喜びを実感することができるのだ、と思います。