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日本福音ルーテル京都教会 

今月の説教

顕現節第3主日(ルカ4:16-32)

              「キリストの教え」

                                沼崎 勇牧師

 1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生しました。この巨大地震は、淡路島および神戸市を中心とする一帯に、大きな被害を及ぼしました。家が倒れ、町並みが一変したことは、大きな悲しみでしたが、やはりもっとも痛ましいことは、6400人以上の犠牲者を出したことでした。遺族は別れを告げるいとまもなく、大切な人の死を迎えました。遺族の受けた心の傷は、推し量ることができないほど深いのではないでしょうか。
 精神科医の安克昌さんは、この震災の時、被災者の方たちの心のケアを行った方です。安さんは、震災で子どもを喪った親たちについて、次のように述べています(以下の記述は、安克昌『心の傷を癒すということ』作品社110-120頁に負っている)。
 亡くなった人は、二度と帰ってきません。これは厳粛な事実です。だから、死別体験者の苦しみとは、この動かしようのない事実を、いかにして受け入れるかという葛藤なのです。しかし死別という事実は、時間さえたてば受け入れられる、というようなものではありません。死別を十分に悲しむという作業(グリーフワーク)が、まず必要です。そして葛藤の中で考え、感じ、話すことによって、喪失は受容されていくもののようです、と。
 それでは受容の過程で、親たちは何を思うのでしょうか。安克昌さんは、一つの事例を紹介しています。ある若いお母さんは、震災で赤ちゃんもろとも、倒壊した家の下敷きになりました。赤ちゃんはその場で亡くなりましたが、病院に運ばれたお母さん自身も、生死をさまよう状態に陥りました。彼女はその時、いわゆる「臨死体験」をしたのです。その時の体験について、彼女は次のように述べています。
 「まばゆく真っ白い光の雲の中をふわふわと実体のない私が上昇していきます。私の横にずいぶん上のほうを行っていたひとつの魂がすっと寄り添いました。私は驚きもせずそれが大志君(わが子)だと理解しました」(118頁)。
 この体験を、お母さんは、とても大切にしていました。なぜなら、この体験は、彼女の喪われた子どもが「死後の生」を生きている、ということの証明だからです。そして、亡き子が素晴らしい世界に生きていると信じることが、彼女の現在の生を支えているのです。
 さて、ルカ4:16以下において、キリストは故郷のナザレに来て、安息日にユダヤ教の会堂に入り、聖書を朗読しようとして、お立ちになりました。その時イザヤ書が渡されたので、キリストは、イザヤ61:1-2を朗読されました。
 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(18-19節)。
 ここでは省略されているのですが、イザヤ61:1には、「貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたし〔イザヤ〕をつかわして心のいためる者をいやし」(口語訳)と記されています。これは対になっていて、一つのことを別の表現で言おうとしています。貧しい者に福音を宣べ伝えるということは、心の痛む者を癒すことである、とイザヤは言うのです(柏井宣夫『平和な未来を告げる』新教出版社152頁参照)。
 震災で、親を喪った子どもたち、子どもを喪った親たちは、時間がたてば癒されるというものではありません。遺族は、死者がどこでどうやって存在しているのかという問いを、問わずにはいられません。悲しみを乗り越えて生きるためには、宗教的な問いが必要なのではないでしょうか(安克昌、前掲書277頁参照)。
 そして、キリストが朗読されなかったイザヤ61:2-3には、こう記されています。「〔主がわたしをつかわされたのは、〕すべての悲しむ者を慰め、シオン〔エルサレム〕の中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである」(口語訳)。
 イザヤは、宗教的な問いに答えることで、すべての悲しむ者を慰めるために、神の遣わされた預言者なのです。そしてこの預言は、ルカによる福音書で、イエス・キリストが来られた時に実現した、と言われています。
 キリストは、この預言を読み、イザヤ書を係りの者に返して、席に座られました。会堂にいた人たちの眼差しが、キリストに注がれていました。そこでキリストは、こう言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)。
 慰めの預言は、イエス・キリストがこの世に来られたことによって実現したのです。キリストがこの世に来られたことによって、心に傷を負っている人の声に答える、という神のみ心が、この地上に見える形で存在し始めました(柏井宣夫、前掲書156頁参照)。
 安克昌さんは、次のように述べています。「苦しみを癒すことよりも、それを理解することよりも前に、苦しみがそこにある、ということに、われわれは気づかなくてはならない。だが、この〔「震災を生き延びた私はこの後どう生きるのか」という〕問いには声がない。......それは隣人としてその人の傍らに佇んだとき、はじめて感じられるものなのだ」(安克昌、前掲書324頁)。キリストが心の痛む者の傍におられるように、私たちもその人の傍らに佇み、苦しみがそこにあることに気づきたい、と思います。

顕現節第7主日(ルカ6:37-49)

                「良い実」

                                沼崎 勇牧師

 カトリック教会の修道女である髙木慶子さんは、悲嘆を抱えている多くの方々へのケア者として、寄り添い同伴してこられました。今日は、子どもへのケアの事例を、一つ紹介します(以下の記述は、髙木慶子、秋丸知貴著『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』クリエイツかもがわ66-67頁に負っている)。
 ある男の子が、東日本大震災で両親と妹を亡くしました。彼は当時、中学二年生でした。山の上にあった中学校で野球をしていた彼は、地震が起きて山を下りる途中、津波の濁流で谷が埋まっている光景に、呆然としたそうです。瓦礫と共に、たくさんの家が流れ着いていました。そこに、彼は自分の家を見つけました。しかも、ベランダに放心状態の母親の姿がありました。彼も、一緒だった友だちも、必死で呼びかけました。母親も気がついて、大きな声で彼に叫んだそうです。「一生懸命生きていきなさい。しっかり勉強しなさい。良い人になりなさい」と。
 彼は、母親を助けるために、何度も濁流に飛び込もうとしましたが、周りの友だちが必死になって放さなかったそうです。やがて、津波が家々を巻き込んで、もの凄い勢いで逆流していきました。それが、彼が母親の姿を見た最後でした。
 大震災から一年半経ち、中学三年生になっていた彼は、髙木さんにこう尋ねました。「一生懸命生きていきなさい、勉強しなさいは分かるけど、良い人になりなさいの『良い人』ってどういう人ですか」。髙木さんは、こう答えました。「良い人って言ったら、色々と説明する人もいるでしょう。でもね、私は一言で言いたいことがあるの。それは、『良い人』っていうのは、自分が人からしてもらって嬉しいことを人にする、人からされて嫌だなと思うことは人にしない、それが『良い人』なんじゃないの」。髙木さんの説明に、彼は「ふーん」と言っていたそうです。
 そして数か月後、彼はまた髙木さんに尋ねました。「自分がしてもらって嬉しいと思ったことを友だちにしたら、『いい迷惑だ』って言われました。どうすれば良いですか」。髙木さんは、こう答えました。「そういう時には、『ごめんなさい』っていう言葉があるでしょ。だから、人が嫌だと思ったら『ごめんね』って言えば良いのよ。そして、人からしてもらって嬉しい時には『ありがとう』って言葉があるでしょう。それだけよ」。今度は「うん」と言って、彼は納得したようでした。
 髙木慶子さんは、この事例について、最後に次のように述べています。「人間関係は複雑なことがたくさんありますが、実は単純です。嫌なことをされたら怒り、嬉しいことをしてもらったら喜ぶ、それが人間関係だと思います。だからこそ、『ありがとう』と『ごめんなさい』という言葉がとても大切だと思います」(同書67頁)。
 さてルカ6:37において、キリストはこう言われています。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」。
 なぜキリストは、「人を裁くな」と言われたのでしょうか。それは、人を裁くことが、私と他者との関係を破壊するからです。しかし悲しいことに、人間というものは、人を裁くことが好きな者たちなのだ、と思わざるを得ません。それはおそらく、人を裁くことによって、自分は相手よりも一段高い所に立っている、と思うことができるからです。私たちは、自分自身を振り返るとき、自分の隣にいる人をさえ本当に愛することができない、赦すことができない、と告白せざるを得ないのではないでしょうか。
 またキリストは、こう言われています。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」(43節)。「善い人〔良い人〕は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(45節)。
 「良い実」とは、人の心から出る良い言葉であり、「良い木」とは、良い言葉を語る、心の清い人のことです。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5:8)と、キリストは言われています。
 アメリカのカトリック教会の司祭ジョン・ディア氏は、「心の清さ」について、次のように述べています。「心の清さ、あるいは内的清らかさは、固定された目標ではなく、一つのプロセス、一つの生き方です。彼〔キリスト〕は、石のような冷たい心ではなく、柔らかな脈打つ心へと私たちを招いておられるのです」(ジョン・ディア著『山上の説教を生きる』新教出版社88頁)。
 そして髙木慶子さんは、御自分の人生を振り返って、次のように述べています。「私自身も、この人生の中で何度も辛い経験をしました。深い悲嘆の中で、落ち込んだこともあります。そういう苦しい時は、優しい言葉を掛けてもらうと嬉しいし、そのことで元気になっていきます。ですから、自分自身が元気になった時には、苦しい時にしてもらって嬉しかったように、今度は弱っている人達や悲しんでいる人達に声を掛けたいと思うのです。それがやはり、社会が優しくなり、世界が平和になっていくための第一歩ではないかと思います」(髙木慶子、前掲書21頁)。
 キリストは、こう言われています。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6:31)。私たちは誰でも、嫌なことをされたら怒り、嬉しいことをしてもらったら喜ぶのではないでしょうか。私たちには、人を裁く厳しい言葉ではなく、優しい言葉が必要なのです。
 良い人になるとは、石のような冷たい心ではなく、愛の脈打つ柔らかな心を持ち、「ありがとう」(感謝)と「ごめんなさい」(謝罪)という言葉を大切にすることなのだ、と思います。