聖霊降臨後第22主日(ルカ19:11-27)
「『ムナ』のたとえ」
沼崎 勇牧師
禅僧ティク・ナット・ハン氏は、1950年代から60年代にかけてのベトナムで(インドシナ戦争とベトナム戦争の時代)、若き僧侶として、草の根の仏教革新運動を立ち上げ、時代が抱える課題や苦しみに、応えようとしました(以下の記述は、ティク・ナット・ハン著『アート・オブ・リビング』春秋社117‐122頁に負っている)。
彼は皆で、全国版の仏教週刊誌の発行を開始し、社会奉仕青年学校を開校して、戦禍で荒廃した村々を回って、支援・復旧作業を始めました。このような活動の中で、「いかに生きるかという、存在の質」が行動の質を決定することを、彼は学んでいきました。
そこでティク・ナット・ハンは、僧院に毎週集まって、黙想会を始めました。黙想し、食事を共にしながら、互いの苦しみや喜びに深く耳を傾ける時間を持ちました。こうして、仲間同士のエネルギーを結集した、楽しい避難所が出来上がったのです。ですから、「じっとしていないで、何かしなさい!」などと叫ぶ代わりに、「いつも動きまわっていないで、ちょっとそこでじっとしていなさい」と言うことも大切なのです。
確かに、人生には常に問題が山積し、私たちは、その解決のために、悪戦苦闘しています。しかし、動けば動くほど状況が悪化するように、思われることがあります。そんな時こそ、ティク・ナット・ハンが言うように、自分たちの行動の基盤(いかに生きるかという、存在の質)を、しっかりと見定める必要があるのではないでしょうか。
ティク・ナット・ハンは、南フランスにある瞑想センターで、イスラエルとパレスチナの人々のための黙想会を、開催したことがあります。中東では、日々生きるための苦闘が続いています。しかし、彼らが瞑想センターにやって来ると、平和な環境で過ごすことができます。彼らは、安心して身を任せ、立ち止まり、静かに座り、自分自身に戻るのです。
ティク・ナット・ハンは、次のように述べています。「ただ一緒に座り、一緒に歩き、一緒に食事をするだけです。これは深いくつろぎの修練です。誰も特別なことをする人はいないのに、これがすでに一つの革命―大きな転換―となるのです。ほんの数日をともに過ごしただけで、随分と具合が良くなっていきます。彼らの心の中にスペース(空間)ができて、対立する相手方の苦しみにも慈しみをもって耳を傾けるようになるのです」(同書120頁)。
この黙想会に参加した若者たちの多くが、「中東に平和が訪れることは可能なのだ」と、人生で初めて思った、と話してくれたそうです。
さてルカ19:11以下において、キリストは、「ムナ」(一ムナは労働者100日分の給料、およそ100万円に当たる)のたとえを話されました。ある人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになりました。そこで彼は、十人の僕にそれぞれ一ムナずつ渡し、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」(13節)と言いました。
そして、王の位を受けて帰って来た主人に、最初の僕は、「あなたの一ムナで十ムナもうけました」(16節)と言いました。主人は言いました。「お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」(17節)。二番目の僕は、「あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました」(18節)と言いました。主人は、「お前は五つの町を治めよ」(19節)と言いました。
しかし、三番目の僕は主人に言いました。「これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」(20-21節)。主人は、「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう」(22節)と言いました。そして、その一ムナを三番目の僕から取り上げて、十ムナ持っている最初の僕に与えたのです。
聖書学者のケネス・E・ベイリー氏によれば、最初の僕と二番目の僕の言ったことは、「私たちの努力の結果は、あなたの贈り物が生み出したものです」ということです。主人は二人の僕を、商売で成功したから、利益が大きかったから褒めたのではありません。そうではなくて、彼らが忠実に贈り物を活かしたから褒めたのです。そして、贈り物である「ムナ」は、私たちが無償で受け取った神の恵みを表しており、「信仰、希望、愛」を象徴しているのです(ケネス・E・ベイリー著『中東文化の目で見たイエス』教文館615、621頁参照)。
三番目の僕は、主人に不忠実で、贈り物を活かさなかったから、一ムナを取り上げられたわけです。この不忠実な僕について、ベイリーはこう言っています。「僕は自分の不忠実が造った青色サングラスで主人を見ている。そのメガネで見る限り、主人は青く見える」と(同書624頁)。この僕自身が、預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取るような人間でした。その人の生き方(存在の質)が、その人の神の見方に影響を及ぼすわけです。「信仰、希望、愛」という神の贈り物を、三番目の僕のように、布に包んでしまっておいてはいけないのではないでしょうか。
私たちが忠実に神の贈り物を活かすとは、どういう意味でしょうか。それは、私たちが神の意志に身を委ねるということなのだ、と思います。ティク・ナット・ハンは、次のように述べています。「今ここで与えられた命を深く生き、他者も同じように生きていく手助けができるならば、それこそが神の意志に身を委ねることといえるでしょう。消極的な委ね方ではありません。心穏やかに平和に慈しみをもって生きる意志は、活力に満ちています。これは神のみならず、私たち人間の意志でもあるのです」と(ティク・ナット・ハン、前掲書126頁)。